自己成長について

思うに学部時代、たまたまなのか、他の人もそうなのかよくわからないが周囲に結構「自己成長」を掲げている人がいた。「自己成長」と言ってインターンシップというただ働きをし、「自己成長」と言って海外に行き、3回生の後半にもなると「自己成長」と言って就活をはじめる。いや、正確には就活をする途中で「就職活動でとても成長できました」と言いだす。

もちろん、例えばインターンシップに行ってプログラマーとしての技術が向上したであるとか、海外で語学能力が上がったとか、そういったことを成長と呼ぶならわかる。しかし、一部では「自己成長」と言うと、何かもっと壮大な(?)「人間として成長した」「生きる力が身についた」「人間力が上がった」という話のようなのである。

何かここに違和感を感じるのは「人間として成長」ということや「人間力」といったことが人間の完成形体が存在しており、人間はそこに収斂していく、といったような前提がなければ成り立たない話だからではないだろうか。また、そういった人間の完成形体のロールモデルを求め、歴史上の人物をほとんど神格化して追い求めていく傾向があるのではないか。どうも、自分はそういったことを信じれないのである。

結局のところ何が言いたいかというと、人間の完成形体などあるかどうかわからないのだから、あまり自己成長といった類の話で自分を安売りするのはやめたほうがいいのではないか、ということである。

「いや、きっと人間には目指すべきところがあるはずだ。そのためには人間として成長せねばならないのだ。だからほっといてくれ」という人もいるかもしれない。それもごもっともなのでそこまで言うなら勝手にどうぞ、と思わなくもないが、なぜかこういった人は他人も同じ自己成長路線に乗っけたがる傾向にあるように感じる。どこかボランティアや何か活動的なことに呼ばれたので参加すると決まって、「友人に呼ばれたから」というのが建前で本音では「何か自分が成長すると思ってきたんでしょ?」といわれる。みながみなではないが、言われることが多い。こちらとしては極端な話ではあるが「おつかい頼まれたから買い物に行った」というような話である。いちいちおつかいに「これが自分の成長に役立つか?」など考えない。しかし、どうもこの感覚が伝わらず、「もっと本音で参加する理由を言え!」となる。もうこういった人たちは「自己成長の罠」とでもいえるものにどっぷり嵌っているのではないか。

最近ではもうすっかり面倒なので「将来はアンドラ辺りで羊飼いをしたい」と言って、早々とそういったことに興味がないことを強く示しているつもりである。そして案外これが効果的だ。