松浦武四郎について

さて、話を今夏北海道に行ったことに戻す。青森からフェリーで函館に渡った。約10年ぶりの函館である。なによりも驚いたのはJR函館駅がずいぶんと様変わりしていたことである。10年前は(記憶がさすがに曖昧だが)木造で真っ白の時計台がついた駅舎であった。その駅の面影は全くなく、すっかり近代的なビルのような駅舎になっていた。個人的には以前の駅舎のほうが好みだったのだが。しかし、他にはあまり大きく変わったところはなかったように思う。函館というと知名度では土方歳三のように思うが、今日は松浦武四郎について書く。

幕末から明治にかけて北海道は諸学国の外国人からとても注目を集めた地域であった。また、明治政府も北海道開拓に力を入れていた。その北海道は1859年松浦武四郎が地図を作成する。当時地図は国家機密となるような重要な位置を占めるものであった。その地図を作成した松浦武四郎蝦夷地を北海道と名付けた人間でもある。この男は幕末には会澤正志斎、藤田東湖吉田松陰などの志士たちと交わり、また蝦夷地調査後には久保利通、西郷隆盛木戸孝允らが松浦の家を訪ね蝦夷地の情報を得ていたという。

松浦武四郎は1818年3月12日(文久15年2月6日)松浦時春(桂介)の四男として誕生する。同じ年に伊能忠敬が亡くなっているのは何か運命のようなものを感じさせる。松浦武四郎は17歳のころから日本全国を旅に出るようになる。20歳になるまでに近畿、東北、関東、中部、四国、九州、北陸などの各地方をすでに旅している。彼は幼少期から活発であったらしいが、16歳のときに家出をし、そのとき江戸まで行ったことが旅の楽しみを覚える大きなきっかけとなったようである。

松浦が蝦夷地と大きな関わりを持つきっかけとなったのは26歳のときにロシアの南下政策を知り、自身が蝦夷地を目指すことになる。翌年には蝦夷地を目指すが松前藩の取り締まりにより入ることができず、実際に蝦夷地に足を踏み入れることができたのは1845年である。このとき松浦は函館(※1)、森、有珠、室、襟裳、釧路、厚岸、知床、根室、函館と調査している。以降、個人的に三度蝦夷地を調査し、三回目の蝦夷地調査では国後島択捉島の詳細な調査もしている。この三回の調査をそれぞれ、「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)として公表し、その当時知識人や志士たちの注目を集めた。また松浦が38歳のときにこの蝦夷地の造詣の深さを箱館奉行が知っており、松浦は蝦夷地御用雇に任命され、再度蝦夷地調査に加わっている。

松浦武四郎は生涯で6回の蝦夷地調査を行い、その調査資料は151冊にものぼる。しかもこれは単に地理的な状況を書き記したものではなく実地調査を踏まえた政策提言に大きなウエイトが置かれていたという。特に先住民の悲惨な状況を改善するための政策提言やアイヌ文化を広く大衆に知ってもらうために書かれたものが多かった。明治維新後には「開拓判官」に任命され、蝦夷地にかわる名称として「北加伊道」などの案を政府に提出している。しかし、明治3年にはその職を辞し、晩年は骨董品収集や登山などの趣味を楽しんでいる。1888年明治21年)2月10日71歳でその生涯を閉じる。現在、彼の北海道の地図は北海道庁のホームページで見ることができる。

(※1)「函館」は当時「箱館」と表記されたがここでは地名に関しては「函館」で統一した。ただし、役職名などの固有名詞に関しては「箱館」の表記を用いた。