教科書について

教科書というのはとにかくおもしろくないものだと思っていた。そもそも日本で使われる教科書は授業の補助教材のような性格で、生徒が独学するために作られていない。さらに高校のとき、複数の先生が教科書の副読本(解答本みたいなやつ)を読み上げているだけだと知って、衝撃を受けた。

なので、大学(経済学部)に入学してからマンキューの教科書の衝撃といったら、これはすさまじいものであった。教科書がおもしろい、わかりやすい、というか授業を聞いているよりよっぽどいい。特にマンキューは世界中で最も使われている経済教科書といわれており、その内容も最新の理論がこれまたわかりやすく載っている。マンキューに出会わなければ経済学の勉強を続けなかったような気がする。それからいろいろと教科書を読むようになり、おもしろいものが結構あることを知ったが、ここで新たな疑問が生まれた。

なぜ小中高では教科書が授業の補助教材のようなものなのだろうか。

この疑問に対して筆者は明確な答えを持ち合わせていない。というかどこを調べればこの経緯がわかるのか不明である。とりあえず素人談義ではるが、今現在の社会状況において教科書が捕縄教材的な扱いであることにはいくつかの点から疑問を感じる。授業時間が短くなったというが、教科書が独立した存在であれば、授業内容に興味を持った生徒は独学で授業に対する理解を深めることも出来るし、先生の質にも影響を受けにくくなる。また、勉強がつまらなくなるのは大抵授業内容についていけなくなったときだが、教科書がしっかりしていれば自力で再度追いつくことも不可能ではない。

なんだかしらの理由があり、今の教科書が選択されているのだろうが、いろいろと考えてみたものの理由がよくわからない。教科書がつまらない=勉強がつまらない、という図式ができあがっている可能性もあるので、「ゆとり」どうこうよりもまず教科書の在り方を見直してみるのがよいのではないだろうか。

かなりどうでもいい話

自分の意思決定プロセスが「何をしたいか」ではなく、「何をしたくないか」という所謂消去法に近い方法で行っているので、就職活動のようなものが苦手だ。「志望動機はなんですか?」と聞かれても、特に嫌な理由がなかったからです、といったところである。熱っぽく無理やり志望動機を語れなくもないが、そこまでして就職したいか、と言われればそうでもないので、素直に答えることにしている(いや、あんま就活してないけど)。

しかも「何をしたくないか」というのもあまり厳密に決めているわけでもないので、余計にボヤっとしている。「なんかこの人とは仕事したくないなあ」と思えば断るし、たまたま時期的に忙しくても断る。厳密には決めてないと言ったが、「君の成長のためになるから」とか言われたら即刻断る(大抵が無料働きさせられるし)。

まあ、どのみちはっきりと「私はこれをしたい!」と叫べる人間も、その理屈は生きてきた中で聞いたもの、見たものなどを時には組み合わせ、時にはそのままなんだかしらの形で用いているだけだ。真の意味でオリジナルなものは存在しない(厳密に言えば、あなたのその思考している言葉そのものが誰かから受け継がれたものだ)。そうやって積み上げてきたイメージから発する「私はこれをしたい!」はそのイメージから外れていると、後々やっかいになることが多い。その分、私なんぞはじめから何も期待していないから、払いがよければ駄々をこねることもなく仕事をする。

で、結局何が言いたかったかというと、仕事を下さい、ということである。

失われた10年について

 年末失われた10年についていろいろと読んでいたら、年始になって参加した勉強会でたまたま失われた10年を扱っていた。ここらへんで一度自分なりにこの停滞についてまとめておこうと思う。

 1990代に度重なる財政出動が行われたが、経済成長にはあまり貢献しなかった。素朴なIS-LMでは財政政策が効果を発揮するが、オープンマクロの世界では財政政策は無効になる。ここでは「失われた10年」とは何か、また、その解決策とは何かについて述べる。

 IS-LMモデルでは近年の経済が説明できなくなり、日本で注目を集めたのはHayashi and Prescott [2002](The 1990s in Japan: A Lost Decade はネットで読むことが出来る。また、英語が面倒ならば『失われた10年の真因は何か』にほぼ同内容で日本語論文が収録されている)だろう。Hayashi and Prescott [2002]では1990年代の日本経済の低迷の原因を二つの点に求めている。第一にもっとも重要な点としてTFPの成長率が落ちたこと、第二に一週間あたりの平均労働時間が短くなったことが挙げられている。
TFP成長率の低下ということで潜在成長率と実質GNP(論文ではGDPでなくGNPを扱っている)の乖離はなく、潜在成長率そのものの低下なので実質と潜在成長率のギャップを埋めるマクロの政策は無効になる。そこで潜在成長率そのものを上げる構造改革が必要になってくる。

 ただHayashi and Prescott [2002]では具体的にどのような構造改革を行えばTFPが上昇するかはわからない。詳細は省くがその後の研究で示されたことはTFPの下がっている産業で雇用者が減らずに上昇し、高いTFPを示している産業で雇用者が減少しているのだ。
 また資金についてもTFPの低い産業への投資が80年代に引き続き行われている。おそらくいわゆる「追い貸し」というものが行われており、これによって不良債権処理が進まず、また、労働者をTFP低下産業に固定するという非効率な投資が行われ続けた。さらに「追い貸し」によって新規企業と衰退企業の入れ替わりの新陳代謝が鈍ったと考えられる。

 1990年代起こっていたことはTFPの低下であり、そのことは労働資源の非効率な配分と資本の非効率な配分によってもたらされていた。不良債権問題に関しては2002年からの「金融再生プログラム」で資産査定の厳格化により、金融機関は自己査定の後、金融庁が自己査定の妥当性をチェックし、妥当性が低いものには指導が入るようになった。これにより2002年3月期に主要行の不良債権比率が9.4パーセントあったのが、2005年3月期には3.1パーセントとなった。全国銀行ベースでも2002年には8.4パーセントであったのが2005年には4パーセントに、さらに2008年には2.4パーセントまで減少したことが『金融庁の1年(平成21事務年度版)』の金融再生法開示債権で見ることができる。しかし、労働市場の硬直化はいまだ解消されているとは言いがたい。
 小泉政権以降、「行き過ぎた市場原理主義」といった批判が見受けられたが日本に足りないのは市場メカニズムの活用であるように思う。

松浦武四郎について

さて、話を今夏北海道に行ったことに戻す。青森からフェリーで函館に渡った。約10年ぶりの函館である。なによりも驚いたのはJR函館駅がずいぶんと様変わりしていたことである。10年前は(記憶がさすがに曖昧だが)木造で真っ白の時計台がついた駅舎であった。その駅の面影は全くなく、すっかり近代的なビルのような駅舎になっていた。個人的には以前の駅舎のほうが好みだったのだが。しかし、他にはあまり大きく変わったところはなかったように思う。函館というと知名度では土方歳三のように思うが、今日は松浦武四郎について書く。

幕末から明治にかけて北海道は諸学国の外国人からとても注目を集めた地域であった。また、明治政府も北海道開拓に力を入れていた。その北海道は1859年松浦武四郎が地図を作成する。当時地図は国家機密となるような重要な位置を占めるものであった。その地図を作成した松浦武四郎蝦夷地を北海道と名付けた人間でもある。この男は幕末には会澤正志斎、藤田東湖吉田松陰などの志士たちと交わり、また蝦夷地調査後には久保利通、西郷隆盛木戸孝允らが松浦の家を訪ね蝦夷地の情報を得ていたという。

松浦武四郎は1818年3月12日(文久15年2月6日)松浦時春(桂介)の四男として誕生する。同じ年に伊能忠敬が亡くなっているのは何か運命のようなものを感じさせる。松浦武四郎は17歳のころから日本全国を旅に出るようになる。20歳になるまでに近畿、東北、関東、中部、四国、九州、北陸などの各地方をすでに旅している。彼は幼少期から活発であったらしいが、16歳のときに家出をし、そのとき江戸まで行ったことが旅の楽しみを覚える大きなきっかけとなったようである。

松浦が蝦夷地と大きな関わりを持つきっかけとなったのは26歳のときにロシアの南下政策を知り、自身が蝦夷地を目指すことになる。翌年には蝦夷地を目指すが松前藩の取り締まりにより入ることができず、実際に蝦夷地に足を踏み入れることができたのは1845年である。このとき松浦は函館(※1)、森、有珠、室、襟裳、釧路、厚岸、知床、根室、函館と調査している。以降、個人的に三度蝦夷地を調査し、三回目の蝦夷地調査では国後島択捉島の詳細な調査もしている。この三回の調査をそれぞれ、「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)として公表し、その当時知識人や志士たちの注目を集めた。また松浦が38歳のときにこの蝦夷地の造詣の深さを箱館奉行が知っており、松浦は蝦夷地御用雇に任命され、再度蝦夷地調査に加わっている。

松浦武四郎は生涯で6回の蝦夷地調査を行い、その調査資料は151冊にものぼる。しかもこれは単に地理的な状況を書き記したものではなく実地調査を踏まえた政策提言に大きなウエイトが置かれていたという。特に先住民の悲惨な状況を改善するための政策提言やアイヌ文化を広く大衆に知ってもらうために書かれたものが多かった。明治維新後には「開拓判官」に任命され、蝦夷地にかわる名称として「北加伊道」などの案を政府に提出している。しかし、明治3年にはその職を辞し、晩年は骨董品収集や登山などの趣味を楽しんでいる。1888年明治21年)2月10日71歳でその生涯を閉じる。現在、彼の北海道の地図は北海道庁のホームページで見ることができる。

(※1)「函館」は当時「箱館」と表記されたがここでは地名に関しては「函館」で統一した。ただし、役職名などの固有名詞に関しては「箱館」の表記を用いた。

自己成長について

思うに学部時代、たまたまなのか、他の人もそうなのかよくわからないが周囲に結構「自己成長」を掲げている人がいた。「自己成長」と言ってインターンシップというただ働きをし、「自己成長」と言って海外に行き、3回生の後半にもなると「自己成長」と言って就活をはじめる。いや、正確には就活をする途中で「就職活動でとても成長できました」と言いだす。

もちろん、例えばインターンシップに行ってプログラマーとしての技術が向上したであるとか、海外で語学能力が上がったとか、そういったことを成長と呼ぶならわかる。しかし、一部では「自己成長」と言うと、何かもっと壮大な(?)「人間として成長した」「生きる力が身についた」「人間力が上がった」という話のようなのである。

何かここに違和感を感じるのは「人間として成長」ということや「人間力」といったことが人間の完成形体が存在しており、人間はそこに収斂していく、といったような前提がなければ成り立たない話だからではないだろうか。また、そういった人間の完成形体のロールモデルを求め、歴史上の人物をほとんど神格化して追い求めていく傾向があるのではないか。どうも、自分はそういったことを信じれないのである。

結局のところ何が言いたいかというと、人間の完成形体などあるかどうかわからないのだから、あまり自己成長といった類の話で自分を安売りするのはやめたほうがいいのではないか、ということである。

「いや、きっと人間には目指すべきところがあるはずだ。そのためには人間として成長せねばならないのだ。だからほっといてくれ」という人もいるかもしれない。それもごもっともなのでそこまで言うなら勝手にどうぞ、と思わなくもないが、なぜかこういった人は他人も同じ自己成長路線に乗っけたがる傾向にあるように感じる。どこかボランティアや何か活動的なことに呼ばれたので参加すると決まって、「友人に呼ばれたから」というのが建前で本音では「何か自分が成長すると思ってきたんでしょ?」といわれる。みながみなではないが、言われることが多い。こちらとしては極端な話ではあるが「おつかい頼まれたから買い物に行った」というような話である。いちいちおつかいに「これが自分の成長に役立つか?」など考えない。しかし、どうもこの感覚が伝わらず、「もっと本音で参加する理由を言え!」となる。もうこういった人たちは「自己成長の罠」とでもいえるものにどっぷり嵌っているのではないか。

最近ではもうすっかり面倒なので「将来はアンドラ辺りで羊飼いをしたい」と言って、早々とそういったことに興味がないことを強く示しているつもりである。そして案外これが効果的だ。

イーハトーブについて

「イーハトヴとは一つの地名である。強て、その地点を求むるならば、大小クラウスたちの耕していた、野原や、少女アリスが辿った鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠の遥かな北東、イヴン王国の遠い東と考えられる。実にこれは、著者の心象中に、この様な状景をもって実在したドリームランドとしての日本岩手県である。そこでは、あらゆる事が可能である。人は一瞬にして氷雲の上に飛躍し大循環の風を従へて北に旅する事もあれば、赤い花杯の下を行く蟻と語ることもできる。罪や悲しみでさへそこでは聖くきれいにかがやいてゐる」

今年になって、岩手に三度行った。最初に二回は震災のことで、三回目はそれも含めて観光地もまわった。盛岡に着いたのは8月8日の朝である。石川啄木ゆかりの地や盛岡城跡をまわり、最後に光原社に足を運んだ。雨の中光原社でぼうっと時間を過ごしていたら、やはり宮沢賢治記念館に行こうと思いたった。なので次の日は早朝から花巻の宮沢賢治記念館と童話村へ向かったのである。あまりにも早く着きすぎたので開園時間よりだいぶ早かった。仕方ないので童話村入り口でごろ寝していたら係りの人が門を開けてくれて、大アメンボやトンボについて丁寧に教えてくれた。どうも賢治の世界観、イーハトーブを体現しようと試みた施設らしい。

そもそもイーハトーブとは何か。賢治本人の説明では「著者の心象中に、この様な状景をもって実在したドリームランドとしての日本岩手県」とある。賢治の中には存在した、賢治から見た岩手らしい。さらに彼はイーハトーブという理想郷をただ理想郷としておくだけでなく、実際に自ら具体化しようとしたことがある。賢治は花巻農学校の職を辞して、新しい農村建設に踏み出したのだ。この農村ユートピアは最終的に失敗に終わるのだが、何が彼をそこまで駆り立てたのだろうか。

今、手元に『イーハトーブ満州国』という本がある。ここでは賢治のイーハトーブ法華経信仰に結びつけて読み解こうとする。法華経による仏国土の出現についての憧憬。また、実家が裕福であったことから貧しい農民達への罪悪感。そういったものが賢治を開拓農民へとまではしらせたのではないか。詳しいことはここには書かないが、この本ではイーハトーブ満州国、つまり宮沢賢治石原莞爾を「法華経」「東北出身」「田中智学」「ユートピア」といった視点から論じている。他にこの2つを論じたものを知らないが、なかなかに興味深い。

井上勝について

前回からの続きを書く。

井上勝の鉄道構想とはどのようなものであったのだろうかということについて少し考えたい。

井上勝は鉄道施設において狭軌鉄道の熱心な支持者であり、この理由を鉄道体系の早期実現をめざしており、施設費用の少ない狭軌鉄道を採用し、できる限り路線延長をはかるべきであると主張していたからだとされている。

しかし、工業化とともに狭軌鉄道が批判されるとこれに対して井上勝は「日本帝国鉄道創業談」にて「先年鉄道広軌説が非常に流行した時は、狭軌にしたことを批難する声が頗る高かった。しかしこれは必要の時機が到来すれば改造すればいいことだ」と、アメリカの例も挙げながら述べている。さらに最後には「尚一歩進んでさらにその必要に迫られ、広軌改造を実行する時代に巡りあえるのを、切望するものである」と述べている。井上にとって狭軌広軌かということが重要ではなく、やはり鉄道拡張という問題意識が第一にあったのではないか。

また私鉄について、井上勝は従来は私鉄否定論者と見做されていた。中西健一は井上勝を「「しばしば機会をとらえては私鉄排撃論を開陳している」と評価している」としているし、原田勝正も井上を「「私設鉄道否認論」ないし「私設鉄道不信論」を展開していた鉄道官設官営主義者であったとしている」としている。しかし、近年この見方は修正が必要であるという議論がある。というのもそもそも井上は日本鉄道会社が設立されたさいに大いに歓迎している。この理由は「測量しながらも政府の財政的理由からなかなか着工できないでいた東京―高崎間の鉄道を建設しようとしていたから」だ。ここでも井上は「鉄道体系の早期実現」を目指しているとみえる。井上は単純に私鉄を否定するのではなく、私営であろうと官営であろうとその効果が疑わしいときには批判しているのではないだろうか。井上が行った私鉄の重要な批判は「日本帝国鉄道創業談」の中の「多数の会社が分立するため、この中には玉石混合で稗糠と目する会社線路も少なくない。又、区々分立して統一を欠き鉄道の効果が不完全なのもあり、在職中に鉄道国有論を提唱したこともあったが、当時は受け入れられなかった」というものであろう。しかし、ここで井上が私鉄を批判しているのは「鉄道の効果が不完全」になるからである。これは「鉄道業がいわゆる「規模の経済」に適合的であることを繰り返し主張していた」ことからだと考えられる。井上は鉄道を拡張していくことを第一目的としており、狭軌広軌かにこだわりがないように、やはり私営か官営かというこだわりが強いわけではないように思われる。なによりも井上が当時内閣総理大臣を務めていた伊藤博文に宛てて1891年に提出した「鉄道政略ニ関スル議」に「鉄道ヲシテ可及的全国枢要ノ地ニ普及セシメ首尾環連幹支接続シ其利用ヲ完全ナラシムル」ことを目的と書いている。井上は何よりも全国の鉄道を拡張し、結ぶことを重要視していたのではないだろうか。

鉄道拡張にエネルギーを注いだ彼であるが、前回にも述べたように相当周囲と折り合いが悪かったようだ。大隈の井上勝評は以下のように続く。

「その山尾は、勝は俺には使えぬ、とこぼしていた。誰か代わりができるかというと、他に代わりはいない。いなければ仕方がない、勝を使うしかない。井上馨も衝突し、山県有朋も野蛮な奴だと食ってかかられた。それなら勝を追い出してしまえ、と言ったって代わりがいるはずがない。そうしているうちに勝が、鉄道を造ってしまった。そんな中、木戸孝允(生前)だけは勝を敬服していた」